あたらしい「自分系」を目指すことで見えてくる、あたらしい世界

二郎系ラーメン店主の一言が、ものづくりの「自分らしさ」として心に刺さった話。


二郎系ラーメン。ランチで時々行く、という人も多いだろう。


ごっつい麺にたっぷりの野菜にニンニク、分厚いチャーシュー。ボリュームが基本という特徴に加え、トッピングの「マシマシ」「抜き」などの「コール」や「ロット回し」の作法など独特の単語を持つ世界だ。

本店から「リスペクト」や派生した店からの「のれん分け」という形で二郎系に心を奪われたラーメン店主の存在は広がり、いまや各地にある二郎系にはいつも行列ができる。


胃腸の弱いわたしにとっては、二郎系はほとほと無理な世界である(行ったことはあるよ)。
しかし、そんな二郎系のある店主の言葉がちょっとわたしの心に刺さった。

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「ジロリアン」の世界

ひところわたしは、田町駅の近くに住んでいたことがある。住所名で言えば芝浦とか三田とかのエリアだ。三田には慶應大学のキャンパスがあり、近所は学生の街にもなっている。そこにひっそりと佇むのがラーメン二郎・三田本店。


「おお、有名なアレがこんなところにあるの?」と思ったが時間になれば行列ができはじめ、人気を窺わせる。


醤油ベースの濃いスープにワシワシの太麺、たっぷりとした野菜に分厚いチャーシュー。「ボリューム」の代名詞だ。
これが基本形で、あとは客が「コール」でトッピングを頼んでいく。


ニンニク、野菜、アブラ(背脂)は「マシ」か「マシマシ」か。味はそのままか「カラメ」か。


そして「ロット乱しは御法度」という暗黙のルールがある。

二郎系は行列が前提だ。だから一定のペースでラーメンを作り続け、回転させなければならない。ここでは来店したグループが同じタイミングで食べ終えることで次のグループ分を一気に調理でき、ラーメンを提供できる。


その中でたった1人か2人食べるのが遅い人がいると、このペースが乱れてしまう。これをロット乱しと言い、歓迎される行為ではないのだ。


筆者も一度、出張先で取材スタッフの希望で二郎系ラーメンの店に入ったが、男性スタッフと同じペースで食べ切るのは、普段マイペースでの食事を好む筆者には苦行でしかなかった。味わっている余裕などなかった。

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「二郎リスペクト店」が全国に

そんなラーメン二郎を愛し、自ら研究を重ねた「二郎系」ラーメンを提供する店はいまや全国に広がっている。


あるラーメンYouTuberも二郎系ラーメンのファンのひとりだ。全国のラーメン店を食べ歩く彼の動画には、店主へのインタビューも収められている。


そのうちのある店長。ラーメン二郎に憧れ、食べ続け、研究を重ねて自ら店をオープンした人だ。そして今は、祝日限定として極太を超える「鬼太麺」を自ら手打ちし、提供している。

みた感じ、これはもう、うどんだ。うどん。その太さでありながらラーメンの麺なのだから、噛みごたえは相当なものだろう。筆者だったら1~2本ずつでないとすすれそうにない。

そんな麺を誕生させたのにも理由がある。鬼太麺は自分の思い出の麺なのだという。もともと提供していた店舗は今はもうなく、どこでも食べられるわけではなくなった味。「だったらもう自分で作っちゃえばいいや」という発想だ。


根源には、こんな思いもある。


「自分が好きなものを好きな人がいっぱいになったらいいな、みたいな」。


ハマる人はハマるだろうし、そうでない人もいるだろう。でも、自分の好きなものを多くの人に知って欲しいし、同じものを好きな人が増えたら嬉しい。


率直な思いに、筆者はほっこりした。

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「ないならば作れば良い」世代のひとたち

「ないのなら、自分で作れば良い」。


とても当たり前のことなのだけど、これは今のようにはモノがなかった時代の人たちに共通しているように思う。

筆者の知人に、ひたすらギターを作り続ける人がいる。ボディの切り出しから塗装、パーツの取り付けまで。出したい音を目指して。
そのきっかけを聞いた時もそうだった。今ほどモノがあったわけじゃないから自分で作るっていうのは当たり前の時代だったんだよ、と。


ある日、いろんなパーツを入れっぱなしにしていた段ボールをひっくり返したら、「これで1本のギターが完成するんじゃないか?」と思いついたそうだ。


さて、今の私たちはどうだろう。

欲しいものがない!と思ったら、Amazonやら専門のネットショップやらにまず向かってしまう。秋葉原にケーブルを買いに行くひとは「ヲタク」と呼ばれる。


だから、「自分でも作れるんじゃないか?」


とはなりにくい。

でもこの発想こそ、ものづくりの本質だ。成功するか、人に気に入られるかどうかは後回し。そう考えないと、「やらない理由」ばかりが積み重なっていくことだろう。


近年、AIなんかがそうなのだが、「なんでこんな便利なものがあるのに使わないの?」と人から言われ、そんなツールを知らなかったことをいちいち恥じていたら物事は先には進まない。それに世の中でいう便利=自分の目的に沿っているとは限らない。

多少要領が悪いと思われたっていいじゃないか。「やらない理由」を探す時間のほうがもったいない。


先述のラーメン店主は、「鬼太麺」を祝日限定どころか、祝日はそれしか出さないという。それで売上がどうなっているかはわからないが、知って欲しいという熱意は尊敬に値する。

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ラーメン、寿司、パスタに並びたい

もうひとり、料理系のYouTuberが面白いことを言っていた。


彼は「へんてこな料理」を作ることで知られている。ゲテモノということではなく、最後は自分で食べてみて、その感想も伝えている。

卵焼きに衣をつけて揚げたら美味しいんじゃないかとか、海外の料理を押し寿司にしてコンパクトにしてみたりとか。

そんな彼がある時、なんでそんな料理を作り続けるかについて話したことがある。


いわく、例えば誰にも「好きな食べ物」があるだろう。


ラーメンが好き、寿司が好き、パスタが好き。
多くはこうした大カテゴリで語られる。

その「大カテゴリ」に並ぶ料理を作って見せたいというのだ。日々の変わった料理はそこに向けた試行錯誤。
ノリで言ったことか本気かは分からないが、かなり大きな夢である。


なんだか、すごい発想だなあ、と筆者は唸った。

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ものづくりは「自分の内面」そのものかもしれない

「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」。


歴史に名を刻む作曲家、クロード・ドビュッシーの言葉である。


筆者はこういう仕事をしているので「言葉の人」ではあるのだが、それでも楽器演奏でしか出しきれない自分の姿や発信したいことがあって、文章か音か、どちらかを欠いてしまうと極端な話、発狂してしまうかもしれないと最近思う。

音楽の世界で「こんな音がいい」というのを伝えるのはそうとう難しいことだからだ。


バンドの練習でスタジオに籠っているときのメンバーの会話など、擬態語や擬音語ばかりだ。

あるいは、かつてのサックスの師匠にこう言われたことがある。


「良い音を出したい、っていうけれど、良い音って何?誰のどのアルバムのどの曲のことを言ってる?」


これがかなり刺さったことを覚えている。いかに自分が何もわかっていなかったかを知らされた。

ぼんやりとしたまま、ただ「いいもの」を作ろう、というのでは、人生は単なる退屈な作業になってしまうことだろう。「いいものって何?」というところまで問いを突き詰めれば、人生に目標ができる。


自分と向き合うことで、つくりたいものの具体像が明らかになっていくのだと思う。楽な作業ではないが、自分の欲望を拾ってあげることで自分が救われる、そんなことは多いものだ。

清水 沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。 取材経験や各種統計の分析を元に多数メディアに寄稿中。