誰の目にも留まらないけれど──「お天道様から褒められる、職人の仕事」

誰の目にも留まらないけれど──「お天道様から褒められる仕事」

上司から却下されたり、クライアントに否定されたり、仕事をしているとさまざまなシーンに直面します。

若い世代には、やわらかく温かい方々が多い一方で、少し、心が折れやすい方も多いように思います。

どうぞ、自分自身の内なる基準に従って、仕事をしてください。そのうえでなら、却下されても否定されても、心は折れません(折る必要はありません)。

その場は、持ち前のやわらかさで相手に合わせるにせよ、自分の基準は、心に大事にしまっておいてください。それを理解してくれる存在が、かならず現れますから。

そんなことを思ったのは、筆者の住まいの近くで始まった、マンション建設の工事を見ていたからです。

2.jpg

職人の仕事に対する真摯な姿勢を見る

建設業界にいたこともある筆者は、建築物ができあがっていく過程を眺めるのが好きで、何の気なしに、窓から見えるマンション建設の様子を見ていました。

建設中のマンションより、筆者が住むマンションのほうが背丈があったので、こちらから見下ろす感じです。


雨の日も風の日も

建設現場の職人。といっても、昔ながらの職人風情という感じではありません。

こちらからわかるのは、遠くから見ている雰囲気だけですが、そこには、やわらかい空気が流れているようです。

"まじめな、いい人たち"が、よいものを一生懸命に育てている。

象徴的だったのは、夕方の撤収前には、毎日かならず、すみずみまで掃き掃除をされていたことです。

誰も見ていないのに。明日もまた、汚れるのに。文字どおり、雨の日も風の日も、たんたんと、でも着々と、仕事が紡がれていきました。

風の日も......、といえば、大きな台風がくると予報された日。職人の方々が時間をかけて、足場の補強や資材の片付けをされていました。

現場ではもちろん必要なことですが、「現場をくまなく確認して、心を向けて徹底している様子」が、伝わってくるのです。


日々の努力は目に見えないけれど

「この方々は、どこに向かって仕事をしているのだろうか?」
そんな疑問がふと心に浮かんだとき、過去の記憶にバチッと当たった音がしました。

思い出されたのは、短い期間ですが筆者が建設業界にいた時期に出会った、配管工の職人さんの言葉です。

その方は、"昔ながらのTHE・職人" という雰囲気で、時代もあり、若手には怒鳴り飛ばすような厳しさでした。

一方、彼の仕事には定評があり、"みんな彼に配管を頼みたい"そうです(筆者は当時、それを理解する見識に欠けていましたが、見る人が見れば圧巻とのこと)。

あるとき、関係者のマイホームの上棟式で、酒席をともにする機会がありました。


「お天道様から褒められる仕事をしないと」

「○○さんの配管は美しいって、△△社長が言ってました」
筆者は、そんなふうに配管工の職人さんに話しかけたように思います。

△△社長に褒められたら、彼もきっとうれしいだろう。そんな打算がちょっと、はたらいていました。

しかし、彼の答えは予想外のものでした。

「誰に褒められてもね。あまり意味ないよね。それは当然のことだから」

天をあおぐようにして、
「お天道様から褒められる仕事をしないと」
と、つぶやきました。

お天道様から褒められる仕事──。

彼が誰に(何に)献身しているのか。その哲学を、垣間見た気がしたのです。


そこで幸せに安全に暮らす人たち

今では、筆者の住まいの近くで始まったマンション建設は竣工し、住民たちが引っ越してきました。

何もなかった空き地に、新しい建物が建ち、新しい生活が始まっています。

そこで暮らす人たちは、直接、職人さんたちの仕事を見てはいないけれど、筆者は知っています。本当に、毎日ていねいに作られていたことを。

そしてまた、職人さんたちに伝えたい気持ちです。みなさんが作られた建物に暮らす人たちが、安全に幸せそうに暮らしていることを。

3.jpg

内なる基準に従う

「お天道様から褒められる仕事」とは、何でしょう。

それを換言するひとつの表現は、「内なる基準に従う」だと思います。


誰のための仕事だろうか

誰のための仕事だろうか。

この問いに真剣に向き合うことが、"内なる基準"に従うスタートラインかもしれません。

「上司のための仕事」ではないことは、誰もが認識していますが、実際となるとまた別問題です。

組織のなかで働く以上、上司のニーズを満たすことが短期的な目標となること、およびそれが最適解と見なされるケースは、少なくありません。

あるいは、「顧客のための仕事」という答えには、多くの人が賛同するでしょう。顧客を第一に考え、顧客満足度を向上させることは、近年の経営戦略の重要課題です。

しかし、ときには「お客さんがこれでイイって言ってるんだから(それでよい)」と、評価を相手に依存することもあります。たとえそれが、不本意な仕事であっても。

そう割り切らないと、ビジネスは成り立たないと指摘されれば、たしかに一理あります。


自分は恥ずかしくないだろうか

ただ、一方で、やはり「自分は恥ずかしくないだろうか」という基準も、持っていたいのです。

それは「自分のキャリアに傷が付かないように」とか、「自分の名前がクレジットされる仕事だから」という次元の話ではありません。

配管工の職人の名前はクレジットされませんし、そもそも、配管の仕事は竣工したら見えなくなります。

そこに他者の目は介在しません。あるのは、自分の内なる基準との向き合いです。


お天道様は褒めてくれるだろうか

自分の内なる基準と向き合うとき、人はお天道様を介在させるのではないでしょうか。

「自分の仕事は、本当にこれでいいのだろうか?」

確かめたくなったとき、天をあおぎます。

お天道様がいいと言ってくれているから、これでいい。たとえ孤独な道のりであっても、胸に手を当て、前に進むことができます。

そして、胸にしまった崇高な基準を理解してくれる人は、いつかかならず現れます。

4.jpg

さいごに

筆者は十数年を企業人として過ごし、その後、独立しました。

企業で働いているとき、「調整力がある」といわれていました。根回しや段取り、(他者の)モチベーション、やりがい──。そういうことを、毎日毎日、考えていました。

そんな過去を否定するつもりはないし、当時のチームメンバーと一緒に残した「いい仕事」もたくさんあると思っています。

ただ、悪い言い方をすれば、「忖度」をたくさんしてきたのです。その時間を、「いいものを生み出す」ことに全集中していたのなら、また違った未来があったかもしれません。

近年の、忖度の重なりの末に起きる不祥事や、悲しい出来事は、他人事とは思えません。

本当の仕事って、何だろうか。仕事って、どうやってやったらいいのだろう。

ずっと考え続けています。この文章では、これからも考え続けるであろう問いの、答えのひとつを書きました。

ここまで読んでくださったあなたの答えは、何でしょうか。

三島 つむぎ

ベンチャー企業でマーケティングや組織づくりに従事。商品開発やブランド立ち上げなどの経験を活かしてライターとしても活動中。