
2024年2月16日 09:00
ものづくりはロボットに奪われる...?いや、待っているのはきっと明るい未来
職人の未来は明るい?機械化が進めば「人である」ことの価値が高まる
「技術の進歩により、職人たちの仕事は機械に奪われる」
これはもう、数十年前から言われていることだ。
多くの工場やオフィスでは自動化が進み、人がやらなくていい仕事は増えている。
職人が高齢化し後継者不足が叫ばれるなか、職人たちの未来を不安に思っている人は多いだろう。
でもわたしは、「職人たちには案外明るい未来が待っているんじゃないか?」と思っている。
なぜなら、技術をもった人間は、その存在だけで価値があるからだ。
AIが進化してもソムリエは必要か?
先日夫と近くのカフェに行き、チョコレートソースがたっぷりかかったワッフルを食べていたときのこと。ふと、ソムリエの話になった。
夫は、
「ソムリエなんて必要ない。ググればなんでもわかるのに、ワインを数百種類も覚えるなんて無意味だよ。AIがアルゴリズムから見つけ出したワインが結局最適じゃない?」
と言った。
たしかに、夫の意見は正しいかもしれない。
グーグルで「ビーフシチュ―に合う辛口の赤ワイン イタリア産」と入力すれば、ぴったりなワインが即座に提示される。そこから選べば、ワインをまったく知らない人でも、すぐにいいワインを見つけられるだろう。
人間がありとあらゆるワインの知識を身につけるには、時間もお金もかかる。ワインを選ぶなら、数千、数万のデータをもっているAIがやったほうが精度が高いし、なにより楽チンだ。
そう考えたら、たしかにソムリエなんて職業は必要ない。
でもソムリエは、ワインを選ぶためだけにいるんだろうか?
わたしは夫にこう反論した。
「そうじゃなくてさ。お客さんは、『ソムリエにワインを選んでもらった』っていうことに満足するんじゃないの? 記念日で高級レストランに行ったら、ワインをググってネットに書いてあるおすすめを選ぶより、プロっぽい人と相談しながら選びたいじゃん」
どのワインを飲むかにこだわっている人ももちろんいるだろうが、その一方で、「どうワインを選ぶか」を重視している人だってたくさんいる。
わたしのように、ワインの味なんてさっぱりわからないけど、なんだかリッチな雰囲気を味わいたい、というようなタイプがそれだ。
そういう人は、どのワインが選ばれるかは二の次で、「ソムリエというプロが自分のためにワインを選んでくれる」こと自体に価値を感じる。
だからいくらAIがワイン選定の能力が高くとも、わたしはソムリエにワインを選んでもらうことを希望すると思う。
人によるサービスを求める客たち
このように、「人がやること」自体に価値がある場面は、案外多い。
たとえば、ホテルのコンシェルジュ。
「東京駅まで行くなら、電車とタクシーどっちが早い?」と聞いたら、コンシェルジュは「この時間は渋滞しやすいので、電車のほうがいいですよ。最寄りの駅より少し歩きますが、地下鉄を使ったほうが直通で結果的に早く着きます」なんて教えてくれる。
もちろん、ググっても同じような結論が出たかもしれない。
でもそうではなく、「さまざまな分野に精通した優秀なコンシェルジュのサービスを受けた」という経験が、ホテル滞在を特別なものにするのだ。
それがわかっているからこそ、どのホテルでも、とくに優秀な「人」をコンシェルジュに選ぶ。
いくらAIが進化しても、帝国ホテルのエントランスに、「なんでも聞いてね!」とロボットが置いてある未来は想像できない。それじゃ、ホテル滞在が特別な時間にならないから。
ほかにも、たとえば横浜の高島屋。
いつ行っても、グランドフロアの化粧品ブースは多くの女性客でにぎわっている。
各ブランドの販売員にメイクしてもらいながら、ああだこうだとおしゃべりして買い物するのが楽しいからだ。
もちろん、質問に答えたら最適なファンデーションを提示してくれるサイトや、顔写真をアップしたらおすすめのメイク方法を瞬時に提案してくれるアプリもある。
でもそうではなく、毎日何人もの客にメイクをしているその道のプロに意見を聞き、実際にメイクしてもらえるからこそ、高島屋に行くのだ。
人にやってもらうからこそ価値がある。人からのサービスだからこそ意味がある。
そういう場面は、少なくない。
手作りだからこそ価値がある
そしてそれは、対人サービスにかぎったことではない。
ものを通じてだれかとのつながりを感じることだって、だれもが経験しているはずだ。
はじめての北海道旅行で、両親とともに雨のなか、阿寒湖アイヌコタンに行ったときもそうだった(コタンとはアイヌ語で「村」「集落」という意味)。
訪れたショップには木彫りのキーホルダーが並んでおり、すべてちがう文様が掘られていた。
それぞれ「勇気」「幸福」といった意味があり、それらはすべて、アイヌの血を引く店主の手作りだそうだ。
正直いってしまえば、木彫りの技術が一級品というわけではないし、その文様が特別美しいわけでもない。
もしこのキーホルダーが機械で作られていたとしたら、わたしは見向きもしなかっただろう。でも「アイヌが作ったアイヌ文様のキーホルダー」だから、ほしくなるのだ。
ケーキ屋さんだって同じ。
東京のとある高級スイーツショップは厨房がガラス張りになっていて、パティシエたちが真剣な目をして生クリームを絞っている様子や、ピンセットで小さなチョコレートの玉を一つずつ乗せている過程を見ることができる。
「あんなに細かい作業を人がやってるなんてすごいな」「クリームを塗る手つきはさすがプロだ」なんて思った後にショーケースを見ると、どれもより一層おいしく見えるもの。
並んでいるケーキがすべて、巨大なホームベーカリーのようなもので自動で作られていたとしたら、そうは思わないだろう。
「人がやる」というのは、それだけで大きな価値があるのだ。
行列のできる寿司屋はなぜ人気が落ちたのか
一方、「人がやる」ことの価値を低く見積もって失敗する例もある。実家の近所にある回転寿司が、まさにそれだ。
そのお寿司屋さんは地元でも有名で、やや高いものの新鮮な魚がそろっており、平日であっても夜は待ちが出るほどの盛況っぷり。土日ともなれば、小一時間待つこともザラだ。
わたしが小さい頃は、カウンターの中に板前さんがいて、直接注文してお寿司を直接渡してもらうシステムだった。食事中、「サーモンかしこまりやしたァ!」「〇〇さん、アジおなしゃァす!」という元気な声が飛び交っていたことを覚えている。
しかしコスト削減のためか、現在では店内が様変わり。
スシローやくら寿司のようなタブレット式の注文になり、カウンターはなくなりすべてボックス席に。店内から板前さんは姿を消した(もしかしたら厨房にいるのかもしれないが)。
以前は毎日行列ができる人気店だったが、いまは「おいしいけど高いそこらへんの回転寿司」。以前のにぎわいはなくなってしまった。
そうなってみてはじめて、この店が人気の理由は「新鮮なお寿司が食べられるから」ではなく、「板前さんに握ってもらう質のいいお寿司をリーズナブルに食べられる」からだったのだと気が付いた。
機械がつくるお寿司を食べるのなら、もっと安いところでいい。それなりの値段を出すのならプロに握ってもらいたいし、「プロが作ったもの」と実感したうえで味わいたい。
板前さんがカウンターにいて、目の前でお寿司を握ってくれることは、値段以上の価値があったのだ。
AIや機械など技術発展の話題は多いが、その一方で、「人にしてもらいたい」「人がするから意味がある」という価値観は、想像以上に根強く残っている。
「人」であることの価値が高まる未来
なぜ人にしてもらうことに価値を感じるのか?
その理由は単純で、他人の知識や技術を味わうのは、一種の贅沢だからだ。
一流のソムリエにワインを選んでもらったり、毎日何十人にメイクしている美容部員にメイクしてもらったり。
アイヌの手彫りキーホルダーを買ったり、有名なパティシエが作ったスイーツを堪能したり。
その人が積み上げてきた知識や技術の一端に触れさせてもらうこと、自分のためにプロの技を使ってもらうこと。
それが特別で贅沢だから、多くの人が望むのだ。
「人にしてもらいたい」「人とつながりたい」という願望は、どんなにAIが進化し機械化が進んでも、なくなりはしない。
むしろ、AIが進化して機械化が進めば進むほど「人であること」が希少になり、価値は相対的に高まっていくだろう。
事実、機械が全自動でお寿司が作れるようになった現在でも、「今日は特別にまわらないお寿司屋さんに行って、板前さんのおまかせコースを楽しもう!」が贅沢として残り続けている。
だから職人は、AIや機械と技術で争う必要はないのだ。
ソムリエがAIと知識勝負したり、寿司職人が機械と早握り競争したりなんて、なんの意味もない。勝てるわけがないし、勝つ必要もない。
それよりも、「人であること」をアピールして、「イタリア帰りのソムリエがあなたにぴったりなワインを選びます」「その道一筋の職人が目の前で鮮魚をさばいてお寿司を握ります」というブランディングをすればいい。
機械が人になれない以上、それに惹かれる人は、絶対にたくさんいる。
「人であること」自体に価値があるのだから、AIや機械に完全に淘汰されることはないだろう。
そう考えれば、職人たちの未来は案外明るいのではないだろうか?
雨宮 紫苑
ドイツ在住フリーライター。Yahoo!ニュースや東洋経済オンライン、現代ビジネス、ハフィントンポストなどに寄稿。著書に『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)がある。