「100人からパクればそれはもうオリジナル」は本当か

「自分にしか作れない」ものを作るために 生き方の「解像度」を上げよう

すこし前のことですが、筆者は電車で乗り合わせた二人の若者の会話に聞き耳を立ててしまったことがあります。

というのは、自分が生業としている「コンテンツ」というワードが飛び出したからです。

現代、特にインターネット上では、次々とコンテンツが作成され、公開され、消費されていきます。逆に言えばクリエイターとしては、手軽に参照できるコンテンツの数が増えたということでもあります。

ものづくりの世界では、「自分にしか作れない」ものがあるというのは憧れの境地でしょう。
では、何が必要なのか。

知識はもちろんのことですが、「100人の良いところを借用すれば、それはもうオリジナル」とは、音楽をやっていて聞いたことのある言葉です。
しかし「オリジナル」であることと「自分にしか作れない」こととの間には違いがあるように筆者は感じています。

2.png

電車の中で聞いた会話

ある日、ライブを終えて自宅に帰る電車の中で、途中から若い2人組の男性が乗ってきました。空いている時間帯だったので、他の乗客の会話がよく聞こえます。

男性2人組は会話をしながら乗車してきたのですが、そのうちの一人が「ネットに色々あるコンテンツを見まくるのも自分の糧になるから無駄な時間じゃないんだよ」と言ったことで筆者の耳はそちらに向いてしまいました。

筆者も、コラムという「ネットに色々あるコンテンツ」を作る人間のひとりだからです。当然、どのような感覚で見られているのか、日頃から気になっています。

男性のその言葉に対して、もう一人は
「時間がもったいなくない?」
と質問していたのですが、聞いていると、コンテンツを見まくることが重要と主張する方の男性も何らかのコンテンツを作っている人だということがわかりました。よって、ランダムでもネット上で色々なものを見るのは、自分の制作の材料になるからスマホをいじる時間は「暇つぶし」ではない、という趣旨の主張です。

なるほどそういった考え方もある、というのは筆者も同意です。「100人の要素をパクったら、それはもうオリジナル」という人は音楽の世界にもいるからです。

ただ、スマホをいじる時間はすべて自分の糧、という主張になにか違和感を覚えました。

この感覚は何だろう?そこで筆者はさまざまなことを思い出しました。

3.png

作って陳列することが容易になった現代

動画、小説、漫画、映像、音楽・・・

今はネット上に多数ある共有プラットフォームで、自分が作ったものを簡単にアップデートできる時代です。自己表現をする場所が広がり、また、ネット上で「隠れた才能」を探す人たちが多いのも事実です。

ネット上での「バズ」をきっかけにメジャーデビューしたミュージシャンや、SNSでのバズをきっかけにアニメ化された漫画も少なくありません。

大手にスカウトされなければ当たらない、そういう時代でなくなったのは良いことだと筆者も思います。
一方で「同じパターン」に沿った別作品が山のようにネット上に溢れているのも事実です。例えば最近はSNSに流れてくる漫画の広告の場合、

・友人のパートナーや仕事などを奪う「ぶりっ子」キャラが最終的には復讐されたり墓穴を掘ったりするストーリー
・SNSに溺れた人が人生を狂わせていくストーリー(これは少し前のトレンドかもしれません)
・転生をテーマにしたもの

などが「よく見る」ものとして筆者の目に留まります。
筆者はこうした作品や傾向を批判するわけではありませんし、同じようなストーリーラインを辿っていても、構図や絵のタッチで「光る個性」のようなものを放つ作品もあるのかもしれません。しかし、同じカテゴリのものが多く溢れるなか、いくつ作品を見ても同じパターンに終わるだけでは勉強にはならないのではないか?と筆者は思ったのです。むしろ「こういうやつを作っておけば流行る」という思考停止に繋がりかねないなあ、とも。

趣味の世界でそれを展開し楽しむのには何の問題もありません。しかし「その世界で生きていく」となった場合、真似事だけの作り物は、世の中でそのブームが終われば自分も消えてしまうという危険に満ちています。

4.png

数よりも、足りない部分を埋める想像力

もちろん、その時期に流行したものから何かを学び、吸収する姿勢は必要です。
しかしコンテンツが溢れるいま、電車の待ち時間や車内では当然のこと、歩きながら動画を見ている人の姿もよく目にします。

その姿に思うのは、人とコンテンツの主従関係が逆転しているということです。

かつては、コンテンツとは人間の側から探し当てるものでした。音楽にしても「あのCMで流れていたのは誰の何ていう曲なんだろう」ということにたどり着くのは、今のようにスマホで瞬時に、かつその曲を聴けてしまうという環境にはありませんでした。

筆者はラジオからカセットテープに録音あるいはレンタルCDショップなどで音楽を探しましたが、ひとつ上の世代になるとレコードの世界です。若者にはそう何枚も買えるものではなく、しかしその不便さのぶん、その世代の人が手に入れているものもあります。

ひとつのコンテンツから得るものの「解像度の高さ」です。ひとつのコンテンツから働く想像力の広さ、とも言えるものです。

筆者の知人であるひと世代上のプロミュージシャンは、学生の時に仲良くなったレコード店の店主にこっそりとタダで色々と聴かせてもらったといいます。もちろん、「量」は限られますが、そのぶん同じ曲を繰り返し聴くのです。
そうしているうちに彼の身についたものは、バンドを構成するすべての楽器の音に対する洞察力です。また、そこから得た刺激をもとに、ひとりでさまざまなことを空想する時間です。限られた材料しかなくてもそのアーティストの本質を想像し、自分で考えて試行錯誤する時間のほうが重要だと筆者は考えます。どれだけたくさんの曲を聴いても、聴き流しているだけでは意味がないのです。
「だれそれのこの曲のこの小説のドラムの入り方が良い」そこまで耳に刻まれるかどうかが大切なのです。

彼はいま海外でも演奏機会を持つ人ですが、このアンテナの高さこそが、彼が海外でも認められる独自の世界を描くのに欠かせなかったものだろうと筆者は感じています。一度体に取り込み、自分の「血液」としてアウトプットする。これがオリジナリティの原点だと筆者は考えています。

自分も含めてかもしれませんが、クリエイティブに生きる人は、世の中的に「変わった人」と言われる人が多いものです。
それほど、自分をこじらせた人たちなのでしょう。しかしその「こじらせ」がまた「変わったもの」「一味違うもの」を生んでいくのも事実です。

5.png

自分だけの「ものづくり」とは、解像度を上げることから始まる

さて、会社勤めをやめた今の筆者は少し時間に余裕ができ、作曲にトライしています。

好きなアーティストはたくさんいますが、あえて誰かに「寄せる」ことは意識せずに作業を進めています。
作曲の工程にはいくつかのやりかたがあり、人によって違ったり、同じ人によってもその時で違ったりするのですが、例えばメロディが最初に思い浮かび、そこに伴奏をつけるという順番がひとつで、筆者はいまこのパターンです。誰がそうしているからというわけでなく、結果的にこのパターンが多くなっています。

しかし他にも方法があります。コード進行を最初に思いつき、そこにメロディを乗せる形、あるいはリズムパターンが最初に浮かび、そこからイメージを膨らませていく形もあります。

そして筆者はアレンジが得意な人と共同で作業をしているところですが、気付かされるのは、自分がどこまでの解像度でイメージを持っているかの重要さです。

「ここのフレーズはどういうリズムパターンを想定している?ギターはどの種類?パーカッションは必要?どう入れていく?バッキングのピアノのフレーズは?ベースラインのイメージは?」

本当は自分が全ての楽器を演奏できて録音して伝えられれば良いのですが、そうはいきません。しかしまずこうやって、曲を構成する多くの楽器の動きも細かくイメージし、人に伝えられなければなりません。もちろん「誰のあの曲みたいな雰囲気」と言ってしまえば話は早いのですが、いま筆者はそういった形にはしたくないというスタンスでいます。
完成した時、結果的に誰かに似ているということはあるかもしれませんがそれは結果論です。

これまで聴いたり演奏したりしてきた曲を高い解像度で取り込み、自分の解釈で、そこに自分の考えてきたことや経験してきたことを乗せてアウトプットしていく。それもまた、解像度の高い情報として表現していく。

本当に「自分にしか作れないもの」は、表向きの技術の繋ぎ合わせでは生まれないと筆者は考えています。

清水 沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。 取材経験や各種統計の分析を元に多数メディアに寄稿中。