海の上で長時間過ごす海洋学者 その仕事を劇的に変えた意外な機材とは?

私はアメリカを拠点に海洋学者として活動しています。大事な活動のひとつに観測船での航海があります。新たに開発した機器が想像もしなかったような新しい世界を拓いてくれることを期待して海に出るので、海洋観測はたいへん楽しみですが、一方でその何倍も不安でストレスフルです。観測船は極端にしてもこのようなストレスは物作りの現場のどこにでも共通する一面もあるはずです。
しかしある機材のおかげで状況は一変しました。

海洋観測船での不安それは忘れ物

海洋観測船には研究者と船の運行スタッフが乗り込み、長期間一緒に生活します。クラブ活動のようで楽しく有意義な時間です。狭い船でともに長期間過ごした者同士は、陸に戻ってからも強い絆で結ばれます。
また、様々な国の異なる分野の研究者との交流は新しい視点をもたらしてくれます。それは研究室では決して得られないものです。
もちろん観測で新しいことが発見できれば研究者としてはたいへん嬉しく、成果によっては将来のキャリアにつながるかも知れません。ですから海洋学者にとって観測航海はとても重要です。

一方で航海は、危険をともなうことに加えて、労力もコストも時間もかかります。そのため、将来的な海洋観測の自動化に向けた様々な研究開発も進めており、新しく開発した水中ドローンや自立型無人観測船などの試運転を行っています。
写真1は、沿岸域での航海に使用される観測船の一例です。沿岸域は水深が浅いことに加え交通量が多く大型の船は利用できません。船が小さいために揺れやすく、船内のスペースも限られます。

1.png写真1 観測船の外観(筆者撮影)

観測船での活動は有意義で楽しみですが、その反面で数倍の不安もあり、神経をすり減らす一面もあるのです。

その原因は忘れ物や紛失です。「忘れ物や紛失などは十分に注意すれば大丈夫だろう」とお思いになるかも知れません。しかし船ではそう簡単ではないのです。

なぜ忘れ物をそんなにも怖がるのか?

海の上での忘れ物は深刻です。陸上では容易に手に入るちょっとしたものが、海上では手に入りません。

船の燃費は悪くスピードも限られます。また、様々な研究者がそれぞれの目的で乗船していますから、一人の研究者による忘れ物を陸に取りに戻ることは不可能です。
もし忘れ物をすれば、期待した観測結果が得られないばかりでなく、経費も時間も無駄になってしまいます。
写真2は荷物の積み込みの様子です。船の運用コストを最小にするために、港には短い時間しか停泊せず短時間で目的地に向かいます。荷物の積み込みは重機を用いて行いますが、複雑な形状の機材も多く、どうしても手作業が必要になります。

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写真2 観測船への荷物の積み込みの様子(筆者撮影)

観測船の運用費用は大変高額です。船の燃料費用だけでなく、運行スタッフの人件費、食費、濾過フィルターなどの消耗品、海洋観測機器のメンテナンスコストや、高価な機材のための保険料などが掛かります。
たとえば最近では、海洋による二酸化炭素吸収の研究が盛んです。海洋には二酸化炭素が溶けやすく、うまく活用すれば地球温暖化を解決できる可能性があります。

海洋が二酸化炭素をどの程度吸収するかは、海上の気温や風速などの気象条件、海表面の波の状況などが関係します。これらは気象学や海洋物理で扱う事象です。また海水に溶けた二酸化炭素の挙動やそれを吸収して光合成をする植物プランクトンの動態は、海洋化学や海洋生物学の研究内容です。これらが組み合わさって、海洋にどれだけの二酸化炭素が吸収されるのかがわかるのです。
こうしてチームで活動している時に、たとえば海中の二酸化炭素が計測できなければ、チーム全体で成果をあげることができなくなります。一方でこのような研究全体の鍵となる測定項目は、新たな成果を得るためのものですから最新の機器で測定されます。最新の機器は使用履歴が少ないため予想外のことが起こりやすく、その備えを事前に予測して準備することは難しいのです。
このように忘れ物を防ぐのは意外に難しく、決して忘れ物をしないように万全の準備をすると、たいへん時間が掛かります。準備期間に時間を割けば、陸上にいる間の他の仕事がおろそかになるかもしれません。たとえば前回の航海での測定結果の解析が不十分だと現象の理解を誤り、次の航海で無駄な測定をする可能性が高くなります。

写真3は船内の様子です。観測機器や救命胴衣、ロープなどが所狭しと置かれています。このような状況なので、船に持ち込む荷物について、二重三重の備えができるほど、船は広くありません。

3.png写真3 観測船内の様子(筆者撮影)

さらにアメリカの観測船で悩ましいのが、単位の問題です。

インチ法という悪魔

アメリカは未だにインチやフィートを使う国です。

ネジひとつにしても、インチ法で製作されたネジと、メートル法で製作されたネジには互換性がありません。

同様のことは工具でもおこります。インチ法のスパナでは、メートル法のボルトを絞めることができません。結果としてアメリカの観測船には、両者が必要となり、日本の観測船の倍の工具を準備する必要があります。

写真4は、上が9/16インチのスパナ、下が14mmのスパナです。ちなみに9/16インチは14.2875mmです。そのため9/16インチのボルトは、14mmのスパナでは絞められません。

4.png写真4 9/16インチのスパナ(上)と14mmのスパナ(下)(著者撮影)

写真5は、巻き尺の例です。外観は同じですが、上はミリ単位、下はインチ単位です。

5.png写真5 メジャーの例(上はミリ単位、下はインチ単位、著者撮影)

全てがアメリカ製であればよさそうですが、優れた機器メーカーはアメリカ製以外にも無数にあります。たとえば日本やドイツなどの機器には優れたものが多くあります。またアメリカのメーカーであっても、海外での販売を考えてあえてメートル法で製造している企業も多くあります。結果としてアメリカの観測船には両方の単位に基づく機材が混在し、忘れ物をしやすくなります。

重苦しい雰囲気が長期間続く恐怖

新規開発した機器を試すのですから、予想外のことが常に起こります。また、想定外の船の揺れで、海中に工具や部品を落としたり損傷したりすることもあります。これを助長するのが観測船ならではの作業シフトです。

通常の観測は8時間交代で行います。これは航海中のメンバーを固定せず、狭い船内での航海のストレスを減らし、人間関係を円滑にする狙いもあります。それは一方で、専門外の研究者や不慣れな学生と一緒に作業することを意味します。

また最近の機器は全てコンピューター制御です。複数のモニターで船の状況を把握しつつ操作し、データを読み取ってその場で測定方法を改善します。たとえば水面下10mで測定値が急変していれば、測定機器をその周辺にゆっくりと降ろして正確に測定します。

写真6はそのような機器操作やデータ整理を行うデスクの様子です。揺れる船内でのパソコンの操作は船酔いになりやすく、船酔いになれば体勢を維持するだけで精一杯となりミスも増えます。しかし、船酔いを理由にシフトから抜けると他のメンバーの迷惑になりますし、船酔いになること自体が海洋学者としては恥ずかしいという意識があるので、なかなか口に出しづらいのです。

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写真6 機器の制御やデータ整理を行うデスクの様子(著者撮影)

実際には以上のような様々な要因が積み重なりミスは起こります。ミスを責める人はいませんが、それでも本人は自責の念を感じます。その原因が、揺れや想定外の問題ならまだよいのですが、単なる忘れ物だった場合は悔やんでも悔やみきれません。

写真7は、機器を引き上げているところです。揺れる船上では手作業が多く、観測機器や工具だけでなく自分が海に落ちるリスクもあります。

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写真7 海面からの機器の引き上げの様子(著者撮影)

このように船での作業には、ミスが起こりやすいわけですが、船という閉鎖的な環境において、ミスにより長期間自責の念を背負うことは陸上の何倍もストレスフルです。喫茶店で気分転換をはかったり、家に引きこもったり、家族に気持ちを吐き出すことはできず、逃げ場がありません。周囲が思いやりをもって自然なやりとりを心がけても、狭い船内がどうしても重苦しい雰囲気になります。

このように、観測船での忘れ物は決して甘く見ることはできず恐ろしいものです。しかし近年、私の観測船での不安を解消してくれる機械が観測船に搭載されました。この機械は私の航海への不安をまるで奇跡のように減らしてくれています。

私の救世主CNC加工機材

CNC加工機材は、コンピュータ数値制御(Computer Numerical Control)を用いた加工機材です。主に金属加工に使用します。ドリルやレーザー切断機などを、コンピュータで制御することで部品や工具を作成します。
図1はその構造を表しています。様々な方向に移動可能な台とドリルが、様々な方向から金属の塊を削ることでネジなどを作ります。*1

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図1 小型CNC複合加工機の構造

関東経済産業局「超小型内視鏡部品製造のための知的ポスト処理システムによる高精度切削加工技術の開発」, p.13
https://www.chusho.meti.go.jp/keiei/sapoin/portal/seika/2010/22131113007.pdf


それにより材料と3Dデータさえあれば必要なものを自前で作ることができます。3DデータはWebサイトなどに掲載されているフリーのファイルが多数あります。また3Dデータが見つからない場合でも、3Dスキャナーを利用してデータの作成ができます。たとえば壊れたパーツをつなぎ合わせた状態でスキャンすれば、そのファイルを用いて一体化したパーツを造形できます。

CNC加工機材により、加工機具を手動で操作する必要がなくなり、高精度に、短時間で同じ部品を作成できます。

このようにCNC加工機材には様々な長所があります。なによりのメリットは、忘れ物や紛失により観測ができなくなったり、中断されたりするリスクを大きく減らせることです。心配がないことによる精神的な負担の軽減だけでなく、観測船内の雰囲気がよくなることにもつながります。一台でこれだけ威力のある機材は他にはないのではないでしょうか。

まとめ

観測船において、部品や工具は大変重要です。陸上ではちょっとした忘れ物でも、簡単に工具や部品を補充できない観測船では切実な問題に発展します。
仮に忘れ物で作業ができないとなれば、チーム全体で成果が得られないため、本人は強い自責の念に駆られます。また周囲は腫れ物に触るようになって気まずい雰囲気になりますから、狭く逃げ場のない船では避けたい状況です。
しかしCNC加工機材によって状況は一変しました。忘れ物をした本人も、失敗を巻き返すための部品作成などに集中することができ、必要なものが完成した暁にはメンバー同士で喜ぶこともできます。
観測船の状況までいかなくとも、新しいものを作る現場というのはストレスフルです。誰も作ったことのない機械などが期日までに本当に完成するかいつも不安なもので、必要な工具や部品の調達に時間を使えば、その分だけ完成が遠のきます。一方で新しい機器が完成した時の喜びは他では味わえません。
常に予想しない問題が起こりうる状況において、それをカバーする機材があることは大変重要です。工具自体を作れるCNC加工機材は、機材の中でも別格と言えるのではないでしょうか。



資料一覧

*1
関東経済産業局「超小型内視鏡部品製造のための知的ポスト処理システムによる高精
度切削加工技術の開発、研究開発成果等報告書」p.13
https://www.chusho.meti.go.jp/keiei/sapoin/portal/seika/2010/22131113007.pdf

鯉渕 幸生

Ph.D 米国標準技術研究所、中央大学研究開発機構教授、Recora LLC 代表取締役CEOを兼務。東京大学准教授、メリーランド大学客員教授を歴任し、米国を拠点に科学者として研究開発に従事している。ライターとしては、科学技術、環境問題、海外転職、英語学習などのテーマで執筆している。