「きょう出会ったその一人のために演奏する」経験から得た、仕事のやりがい

ものづくりの現場は時として、最終消費者と遠い関係にあります。飲食店などであれば直接お客さんに会って会話をする時間がありますが、製造の現場ではそうはいきません。

学生時代に飲食店でアルバイトをしていたときは、直接お客さんから「ありがとう」と言われることもあり、それが楽しいと思っていた時期もありました。

しかし、会社員になってからの筆者は、直接お客さんの顔を見ることのできない仕事が続きました。その中でさまざまなモヤモヤを抱えたものです。
いえ、今もその状態で仕事をしています。この記事がどのような人に届いているか、どのような感想を持たれているか知る手段はほとんどありません。

ただ、趣味の音楽活動を続けているうちに、考え方が変わってきました。

「お客さんの顔」が見えた時・見えなくなった時

ownedmedia_shutterstock_84590638_small.jpg

筆者が初めて「はたらく」経験をしたのは、学生の時、飲食店でのアルバイトでのことです。
もちろん、お金が必要でアルバイトを始めたわけですから、当初は「はたらく」ということに対して「楽しさ」や「やりがい」といったことを考えてはいませんでした。実際、最初は覚えることも多くありますし、「ちゃんとできたかな」ということばかりが気になるものです。

しかしある程度余裕が出てきた時に、筆者は色々なことを感じるようになりました。

店を利用し、筆者らの給料のもとになるお金を出してくれるのはお客さんです。
にもかかわらず、お店を出る時に「ありがとう」「ごちそうさま」と筆者たち店員に声をかけてくれるお客さんが多いのです(筆者もそのように声をかける一人ですが)。

サービスをする方も受ける方も、お互いが「ありがとう」と言い合う。これはとても素敵なことだなあと感じました。私たちはその人に楽しい時間を提供できたのだ、ということを「やりがい」としてしっかり認識したものです。

また、メーカーからの派遣で、パソコン販売店のアルバイトをしていた時期もありました。ここでも、わからないことを聞かれたり店内で迷ったりするお客さんがいます。
その時に、気軽に声をかけてもらえたり、自分の説明を聞いたお客さんの顔が「なるほど!」と明るくなると、このアルバイトのために勉強をしてきてよかったなあと思うものです。

しかし、会社員になってその状況は一変しました。

放送業界は収入構造が少し変わっています。お金を出す「お客さん」は、視聴者ではなく企業などのスポンサーです。
一方でコンテンツを消費する「最終消費者」は一般視聴者です。一般の人向けに番組を制作しているのであり、スポンサー企業のために制作しているわけではないからです。

駆け出し記者の時はそのようなことについて考えることはあまりなかったのですが、筆者は次第に考えてしまうようになりました。

「誰のためにやっているんだろう?」

ownedmedia_shutterstock_404278963_small.jpg


ある日のことです。
筆者が夜のニュース番組で、ある先端医療の話を特集として放送したところ、放送終了直後から番組スタッフルームの電話が徐々に鳴り始めたのです。
放送を見た多数の視聴者から、「この治療はどこに行けば受けられるのか?」といった問い合わせが相次ぎました。筆者も直接対応をしました。

その時、筆者はようやく「お客さんの顔を見る」ことができたのです。

作ったものを一方的に電波に乗せる、テレビの仕事は基本そうなってしまいます。よって普段、どんな人がどんなことをしながら今このVTRを見ているのだろうかといったことは直接知ることはできません。

しかしこの時筆者は、番組で紹介した病気と同じ症状で困っている人が多くいることを知り、「人の役に立てた」ことを直接肌で感じられたのです。

その経験から、逆にその後はまた悩むことも増えました。
番組を見た人と直接電話で話せるというのは、そうあることではないからです。一度良い経験をしてしまったがために、筆者なりに「視聴者の役に立つように」と考えて仕事を続けてはいたものの、「本当にあのVTRで良かったのか?」と自問自答することも増えました。

視聴率グラフで自分の担当した時間帯を確認し、いわゆる「CMまたぎ」をしてもその時間中は視聴率が落ちていないことを確認して安堵することしかできませんでした。しかしその紙に、人の顔が映っているわけではありません。

趣味で得たひらめき

不特定多数に向けてものづくりをする限り、このようなモヤモヤから逃れるのは難しいことです。そして筆者のいまの仕事もそうです。自分が日々作成している記事を、いつどのような場所でどんな方が読んでくださっているか、正直なところ、知る方法はありません。

しかしある時、趣味の音楽をやっているときに、考え方を変えてくれる出来事に出会いました。

顔の見えない「あの人」だけのために

筆者は現在、バンド活動をしています。特に退社してフリーランスになってからは、ライブの頻度も増えました。
かといって、有名バンドというわけでもありません。どこにでもありそうなアマチュアバンドです。毎回同じファンが集う、というわけでもありません。

しかし、このようなことがありました。

筆者の演奏を一度生で聞いてみたい、と何度も言ってくれていながらも、病気がちで外出が難しい友人がいます。せめてもと思いその友人に録画を送ったところ、とても喜んでくれたのです。「これまでに『よく眠れるCD』みたいなのはたくさん買ったけれど、さやかちゃんの演奏が一番安心して眠れる」とまで言ってくれました。

できればリアルタイムで見たいということでしたので、その後はネット配信でライブを見てもらっています。

ライブの時、彼女は筆者の目の前にいるわけではありません。配信をしていても、その時間は体調が悪くて寝てしまっているかもしれません。
しかし、どんなに現場でお客さんが少ない日でも、筆者はその彼女ひとりだけのために全力で演奏するんだと決めています。画面の向こうで耳を澄ましてくれているであろう彼女のためにと考えると、その場がどうであれ、毎回の演奏が「やりがい」に繋がるのです。

それ以降、筆者はライブの現場では「その日のターゲット」を決めて演奏しています。直接来てくれる友人がいる日はもちろんのこと、それがなくても、移動中に出会ったどこか落ち込んでいそうな人、外に聞こえてくるピアノ練習の子供。なんでもいいのです。「きょうはこの人のために演奏しよう」と決めるようにしています。

二度と顔を合わせることもないであろう人たち

また、先日はこんなこともありました。

都内のある桜の名所で、野外ステージでライブをする機会をいただいたときのことです。思いのほか多くの通行人が足を止めてくださり、一緒に楽しい時間を過ごすことができました。
夜桜の時間帯でお客さん全員の顔ははっきりとはわかりませんでしたが、筆者はある人の姿だけはしっかりと捉えていました。80歳は過ぎているであろう小柄なおばあちゃまが、音楽に乗って楽しそうに踊ってくれていたのです。まさに、その日の筆者の「ターゲット」です。

筆者はきょう、このおばあちゃまだけのために朝から準備して重い機材を運び、ここまで来たと言ってもいい。日頃練習してきたと言ってもいい。このおばあちゃまの今日という一日を飾れた、それだけで大きな幸せを感じました。

直接言葉を交わす時間も取れず、二度と顔を合わせることもないかもしれない一人のおばあちゃまが、筆者にエネルギーをくれたのです。そしてまた明日から頑張って練習しよう、と思わせてくれました。

「やりがい」に大風呂敷は必要ない

ownedmedia_shutterstock_1196401945_small.jpg

ものをつくった人が、直接的な形で誰かに感謝され報われる、というのはとても重要なことだと筆者は思います。
しかし今の経済の形では、個人経営の店などでないとなかなか出会えるシチュエーションではありません。

この間踊っていてくれたあのおばあちゃま、家族や他の知り合いにあの日のことを話して楽しんでくれたかな、そうだといいなあ。
それは筆者の妄想ですが、その日出会った人に自分のやったことがどう影響しているかな、と想像することが最近、筆者の中では楽しみになりました。

人の仕事にはいろんな種類のものがあります。
地球環境や社会問題といった大きなところで働く人もいれば、人々の日々の暮らしを見えないところで支える仕事をしている人もいます。

筆者も、もう少し頑張って放送局で働き続けていたら有名ジャーナリストになっていたかもしれません。しかし、諸事情で違う道をいまは歩いています。

ただ、その中にもささやかな喜びを感じられる瞬間があることに、日々感謝しています。この記事も、どんな方の目に留まっているかはわかりません。しかし少なくとも筆者の友人であるあの人の役には立ってくれているといいな、あるいは、さっきコンビニですれ違ったあの人の目に留まるといいな、そう思いながら書きました。

清水 沙矢香

2002年京都大学理学部卒業後、TBSに主に報道記者として勤務。社会部記者として事件・事故、テクノロジー、経済部記者として各種市場・産業など幅広く取材、その後フリー。 取材経験や各種統計の分析を元に多数メディアに寄稿中。